「孝子地蔵」 巡礼悲話
千代田神社東側の坂道を北へ下ると地蔵堂があり、まつられている地蔵に母と子の巡礼の旅の中でおこった悲劇が語伝えられている。 河内長野市域を貫く古道のひとつに、西国三十三所観音霊場第四番槙尾寺から第五番葛井寺への巡拝の道、巡礼街道がある。 天野山金剛寺から、天野公民館の横の通学道、広野、高向水落、上原塚堂、西代神社西側を北上、原の辻で西高野街道と交差し、 そして向野長坂で東高野街道へと連なる。そこは市村と向野村との境でもある。
享保8(1728)年3月29日、ここに倒れている巡礼者と傍らにたたずむ小娘がいた。 話をきくと「備中国後月(しづき)郡吉井村の徳右衛門」と名乗った。両村の村人は役所に届けた上で医者を付け介抱したが、 同年5月7日の夜亡くなった。弔いをすませ小娘は国元に帰された。
9年後、娘は世話になった村人にお礼に訪れ、父の菩提のために「左まきのを道」と刻まれている地蔵を造立し、元文2年(1737)11月24日に開眼法要が営まれた。
いつしか「父と娘」の巡礼悲話が「母と子」の孝子地蔵と語られるようになった。市内には100余の道標を確認しているが、 槙尾寺、葛井寺への巡礼道をさし示すものが3割近くある。