出合の辻 正慶2年(1333)、鎌倉幕府軍(紀州勢)が楠木正成の挟撃にあい50余名の死傷者を出し、 紀州に敗退したことが『楠木が合戦注文』という古文書に記されている。 この時流谷八幡宮が焼失し、のち復興されるが、その頃の古文書が大切にまもられてきた。