油屋の石碑

油屋の石碑

油屋は当初は屋敷内に設置した水車を利用して、油絞りを生業としていた。 いつの頃から旅館業を始めたかは分からないが、江戸時代には高野山の御用宿として多くの旅人でにぎわっていた。 油絞業(あぶらしぼりぎょう)の名残である庭園の水車は旅館の名物だった。 明治23年(1890)には、烏帽子形城跡の山麓で見つかった温泉を利用して「錦渓温泉油屋」として再出発した。 大正4年(1915)高野鉄道(現南海高野線)が開通して以降、徒歩での参詣客が減少し、三日市では旅館や酒屋などの廃業が続き、 油屋も昭和50年まで営業を続けていた。幕末の文久3年(1863年)、公家の中山忠光を盟主が、尊王攘夷派が天誅組を結成し、油屋に投宿した。

(河内長野市教育委員会発行「高野詣」より引用)