烏帽子形城趾
・河内烏帽子形のキリシタン
烏帽子形城趾
紀伊、大和、和泉の三国に通じる道が交差する要衡に立地し、時代の移り変わる時、戦場となる。 「平家物語」のなかでは、「長野城」として、また南北朝期楠木七支城として、 そして応仁の乱に始まる戦国時代へと、「土の城」としての遺構と文献資料に記されていることから国の史跡に指定された。
河内烏帽子形のキリシタン
織田信長が畿内に進出し、豊臣秀吉に至る時代、河内には7千人のキリシタン信者がおり、烏帽子形城には、 三百人から五百人の信者とキリシタン部将がいた。河内の拠点のひとつであった。そして教会も建てられていた。 「烏帽子の大身」よばれた部将伊地知文太夫は堺の屋敷をイエズス会に寄進しこれが堺の教会のはじめである。 などがイエズス会年報の中に烏帽子形城が記録されている。大日寺の近くに「ヤソブ」の地名があり、キリシタン伝説を伝えている。